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新潟地方裁判所 昭和46年(わ)384号 判決

被告人 戴克民

西暦一九三六・一〇・四生 無職(元船長)

主文

被告人を禁錮六月に処する。

この裁判の確定した日から二年間右の刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実の前提となる事実)

一、被告人の経歴

被告人は中国福建省で生まれ、約一二年間の船員の経歴をもち、その間昭和三七年航海士の資格を得、同四六年四月中華民国政府から甲種船長の資格を得て、同年七月一日からジユリアナ号(以下本船と略称する)の船長として勤務していた。

二、本船の船籍、所有者、総トン数

本船は、リベリア国に船籍をもつ油槽船(タンカー)で、パナマ国法人のトルウー・マリーナ会社の所有であり、総トン数は一一、六八四トンである。

三、本船の出航地、積載貨物、乗組員

本船は昭和四六年一一月八日、二六個のタンクに原油一八、二九八トンを積載して、中東オーマン国ミナ・アル・フアハル港を出港し、新潟港に向かつた。本船には被告人以下鐘鳳良一等航海士、王政雄二等航海士、陳維新三等航海士など計四六名が乗り組んだが、被告人はじめ幹部乗組員の殆んどは、すでに同年八月および九月の二回にわたり、本船で新潟港に入港した経験があつた。

四、本船の新潟市沖における錨泊状況

(一)  本船は昭和四六年一一月三〇日朝新潟市沖合に到着し、同日午前七時四三分ころ、新潟市西船見町海岸沖約一、三五〇メートルの、北緯三七度五六分五二秒、東経一三九度〇三分〇〇秒付近の海上で、左舷錨の錨鎖四節(一節は約九〇フイート)をくり出して投錨し、午前八時二三分ころ、本船の代理店である新潟臨港海陸運送株式会社に打電して、検疫官と水先人の到着を待つた。右投錨地点は新潟港の港湾区域内ではあるけれども、信濃川左岸の、河口から外海に突出した新潟港西区西防波堤の外側(外港または新潟港第二区と呼ばれている)にあり、同防波堤灯標から真方位二五〇度(以下、本判決では方位はすべて真方位を用いる)、約一・一六マイル(約二、一四八・三二メートル)の距離にあり、検疫錨地(その水深は一九メートルないし二八メートル)から約二キロメートルも離れた場所であつた。ちなみに本船投錨地点の水深は約一二・五メートルないし一四メートルで、本船の吃水は前部約二九フイート(約八・八三九メートル)、中央部約三〇フイート(約九・一四四メートル)、後部約三一フイート約九・四四九メートル)であつた。なお同所附近の海底の底質は砂地で、水深は陸岸より沖に向けてゆるやかに深くなつている。

(二)  被告人は同所に投錨する際に、三等航海士陳維新に命じ、レーダーのほか、ジヤイロコンパス、英国海軍作成の海図を用いて交差方位法により、物標を新潟港西防波堤灯標と新潟県西蒲原郡巻町の角田山と定めて船位を測定させ、自らもこれを確認して、本船の船位が右灯標から二四七度一・七マイル(三、一四八・四メートル)にあると判断した。しかし右測定は、測定の際に用いた海図が二五万分の一という、小さすぎる縮尺の海図であつたこと、目標として定めた右二つの物標の交差角度が、交差方位法において適当とされる三〇度ないし一五〇度という範囲を外れて、一六〇度近くもあつたことなどから正確を欠き、右(一)に記載した真実の船位とは直線距離にして約一、〇〇〇メートルの誤差があつた。加えて、被告人は前回入港の際にもほぼ同じ場所に投錨したから、その必要はないと考えて、本船の投錨時にハンドレツド(手用測鉛)または音響測深儀を用いて水深を測定することを行なわず、(前記海図前記海図には新潟港の港域内に数えるほどの地点の水深しか記載されていない)の水深の表示をそのまま採用し、同所は七・五ないし九・二ひろ尋(約一三ないし一七メートル)くらいの水深があるものと判断した。また同じ理由で、被告人は本船が陸岸と最短距離でどの位離れているかを測定する必要性も感じなかつた。

なお、新潟港の海図(港泊図、ハーバーチヤート)としては、海上保安庁水路部作成の縮尺七五〇〇分の一の海図が発行されており、一般に入手可能である。ところが、被告人はこれまで二度新潟港に入港した経験があり、将来も新潟港に来港することが予想されていたのに、これを買い入れなかつた。また英国海軍製の新潟港の海図三四三七号も発行されているのに、これも入手していなかつた。

(三)  本船が新潟港埠頭に入港する予定時刻は同日午前一〇時ころから正午ころまでとなつていた。ところが、本船に乗り込む予定の水先人は、当日の気象状況から出動を見合わせていたが、午後三時ころパイロツトボートが信濃川河口の西防波堤外に出ることは風波のため危険であると判断し、前記代理店に連絡した。そこで、代理店は午後三時四〇分ころ本船に対し、天候が回復したら翌日午前七時ころ水先人が乗船する予定である旨打電したが、本船は、どのような理由かわからないが、これを受電しなかつた。

(四)  本船の投錨時以降の気象状況は、投錨時から午前一〇時前ころまでの間には南西の風が吹いたこともあつたが、それ以降は終始北西、西北西あるいは北々西の、海上から陸岸(新潟市西船見町海岸)へ向けた、一〇メートルないし一七メートルの相当強い風が吹き続け、午後四時ころには波の高さが二メートルないし三メートルとなつて、天候の回復は早急には見込まれない状態にあつた。

(五)  被告人は、投錨後午前八時から正午までの間、陳維新三等航海士外一名を当直勤務させ、その後正午から午後四時までの間、王政雄二等航海士外一名を当直勤務させ、同人らに風向、風力、波浪などの測定、記帳や船位の測定など本船の安全確認のための業務に当らせた。陳維新は正午ころ船位の測定を行ない、そのころ被告人自身も船橋に上つて船位の測定を行なつたが、投錨時の船位との変化を認めなかつた。

その後王政雄は、その当直勤務中、何回か船位の確認を行なつたが、その船位の確認方法は、西防波堤突端の灯標と、これより約二〇〇メートルも陸地側に寄つた西防波堤灯台とを区別せずに物標として用い、また二度ないし五度の方位の差は無視し得るものと考えるなど、大まかなものであつた。そして同人は測定の結果、これら二基の灯標あるいは灯台から、本船は二四五度ないし二四七度もしくは二四五度ないし二五〇度の方位にあつたことから、本船は投錨時の位置から移動していないと判断した。

(六)  しかし、実際には本船の位置は、午前九時五〇分には、北緯三七度五六分五二・〇秒、東経一三九度〇三分〇〇秒で、陸地との最短距離は約一、三五〇メートルであつたのに、午後四時には、北緯三七度五六分四三・五秒、東経一三九度〇三分〇三秒で、陸地との最短距離は約一、一〇〇メートルとなつており、午前一〇時ころから午後四時ころまでの間に、陸地方面に向け約二五〇メートルも移動しており、午後四時ころには、すでに走錨が始まつていたと解するよりほかなかつたのである。そして午後四時の本船の位置の水深は、約一一・四〇メートル強ないし約一二メートルしかなかつた。

五  避航の準備

被告人は、同日午後三時三〇分ころ、気象状況、特に波、うねりの状況が次第に悪化し、日没も近づき、水先人らも予定時刻を数時間経過しても来船しなかつたことから、午後四時に転錨して沖に避航させようと考え、その旨部下に指令してそれぞれの持場につかせ、午後三時五五分ころ船橋に上り、午後四時スタンバイ(準備完了)を告げ、同四時三分から部下を指揮して、揚錨作業を実施した。

(罪となるべき事実)

被告人は船長として、本船の操船ならびに運航等の業務に従事していたものである。

一、本船の覆没の危険を予見するため、本船の位置の変動の有無、ことに走錨の有無を確認する義務とその違反

すでに述べたように午後四時の段階で当日朝の投錨位置から本船は約二五〇メートル陸岸方向へ走錨していたのであり、風波の状況からすれば、揚錨作業中に本船は風波に圧流されて、さらに陸岸方向に走錨し、水深が足りなくなつて、船底が海底を衝撃し、本船が覆没する危険があつた。かような場合に船長としては、通常の出航の場合以上に、本船の位置の変動の有無、ことに走錨の有無に関心をもち、乗組員を指揮し、あるいは被告人自ら、適宜レーダー、ジヤイロコンパス等を使用し、また見張りを行なつて船位を確認することはもちろんであるが、さらに正確を期するためハンドレツドを投下して走錨の有無を確認したり、ハンドレツドや音響測深儀を使用した水深の測定をするなどの措置を講じて、船体が覆没するなどの危険を予知しなければならない業務上の注意義務があつた。ところが、被告人は王政雄二等航海士に命じて、レーダー、ジヤイロコンパス、前記二五万分の一の縮尺の海図により、大まかな船位の確認をさせただけで、見張り、ハンドレツド、音響測深儀の使用などは行なわず、王政雄二等航海士が右四の(五)に述べたと同様なずさんな測定に基づき、本船の船位に変更はない旨の報告をすると、これをそのまま鵜呑みにし、漫然投錨作業を続行し、本船が風波に圧流されて、陸岸方向に走錨していることに全く気付かなかつた。

二、本船の覆没の結果を回避するため、捨錨などの緊急措置により速やかに沖に向け出航する義務とその違反

被告人は午後四時三分、船橋にいて操船指揮をして揚錨作業を開始し、船首部で揚錨作業に当つている鐘鳳良一等航海士から、携帯用無線機を使用して、作業の状況について逐一報告を受けていたが、揚錨機による錨鎖の巻き揚げ作業が、通常ならば一節につき四分ないし五分くらいで完了するのに、当時は強い風波の影響により、船体が上下左右に揺れ動き、錨鎖が強く張つたり、錨鎖の方向があちこちに変つたりしたため、当初より順調でなく、その間大波が来ると一旦巻き揚げた錨鎖を再び繰り出し、大波が過ぎ去るとまた巻き揚げを始めるなどしながら、揚錨作業を続行した。

ところで、本船は前述のとおり投錨時に錨鎖を四節繰り出していたのであるが、揚錨作業に当つてはじめの第四節は困難を伴つたものの、なんとか揚錨できたけれども、第三節を揚錨するころから、巻き揚げはきわめて困難になつた。かような場合に船長としては、現に本船の錨が曳けて陸岸に接近しているのであるから、漫然揚錨作業を継続するときは、本船が覆没する事態が発生することを考え、その結果を回避するために、直ちにシヤツクルピンを抜いて錨鎖を切断し、一刻も早く水深の十分ある沖合に避航しなければならない業務上の注意義務がある。

ところが被告人は右の注意義務に違反し、漫然揚錨作業を続けるよう部下に命じただけであつた。

三、結果

被告人が右の注意義務に違反したため、揚錨作業を続けているうち、本船は、風波に圧流されて、午後四時ころの船位よりもさらに陸岸方向に約三〇〇メートル走錨し、午後四時四五分ころ水深が約一〇メートルしかない、北緯三七度五六分三八秒、東経一三九度三分一六秒附近の海上で、船底が海底を衝撃し、その衝撃により本船第六番ハツチ附近に亀裂が生じ、同五時一五分ころ本船は右附近で折れ曲がり、同三七分船首部分と船尾部分の二つに分断された。よつて被告人は業務上の過失により同船を覆没させた。

(証拠の標目)(略)

(被告人および弁護人らの主張に対する判断)

被告人は(一)当日午前七時四三分の本船の投錨地点は新潟港西防波堤灯標から二四七度、一・七マイルの地点であり、その後事故発生まで本船が移動した事実はない、(二)揚錨作業開始後、船位確認のための努力は十分尽くしている、(三)本船は投錨地点から移動していないのであるから、揚錨作業が困難であつても、錨鎖を切断するなどして沖合に避航させる必要はなく、揚錨作業を継続すれば足りる旨主張し、弁護人らも同趣旨の主張をしている。

そこで判断するに、

(一)について

1  (証拠略)によれば、本船の投錨の時、陳維新三等航海士は被告人に命ぜられて本船の船位の測定をし、本船の位置を西防波堤灯標から二四七度、一・七マイルの地点であると測定したことが認められる(なおこの地点の緯度、経度は北緯三七度五六分四八秒、東経一三九度〇二分二一秒となる。)。そしてその後鐘鳳良、王政雄および被告人自身が事故発生まで何度も船位の測定をしているが、誰一人としてその船位に変化の生じていることを発見したものはいなかつたことが認められる。しかしその測定方法は判示のとおりいずれもきわめて大まかで、しかも船位を記入した海図も縮尺の小さいものであつたから、相当の誤差が生じうる、正確度の低いものであつたことが推認される。従つて、その測定の結果も、果して真実の位置をあらわしているものかどうか、はなはだ疑わしいといわなければならない。

2  ところで、(証拠略)によれば、新潟港内の信濃川左岸河口脇(新潟市入舟町)にある運輸省第一港湾建設局新潟港工事事務所内には波高等を観測するためミリメートル波レーダーが設置されており(ミリメートル波レーダーが、通常の船舶に備えられているセンチメートル波レーダーよりも分解能が勝れていることは、公知の事実である。)、同工事事務所では、日本港湾コンサルタント社に委嘱して、日曜を除く毎日午前九時五〇分から一〇時一〇分までと、午後三時五〇分から四時一〇分までの朝夕二回、各五分おきに右レーダーによる観測結果を写真機によつて自動的に撮影していること、そして右レーダーはつねに二・五キロレンジにセツトされていて、これによればレーダー基地を中心として概ね三・五キロメートルの範囲まで観測が可能であり、その範囲内の電波をさえぎる物体である船舶、ことに大型船舶は、容易に識別し、その方位および距離を測定することができること、本件事故当日も前記時刻通りに写真撮影がなされ、これを現象した写真が前記報告書に添付されている一〇枚の写真であることが認められる(証人古俣久次郎の供述により、写真機の自動日付装置に故障はあつたけれども、本件写真は、事故当日のものであることが認められる。)。そこで右写真に果して本船が写つているか否かについてみるに、証人永田義知の供述によれば、当日西防波堤の西方海上に停泊していたのは本船だけであるから、午前九時五〇分から一〇時一〇分までの写真の中で、基地から西北西約一、五〇〇メートルの位置にある大型船舶らしい映像および午後三時五〇分から四時一〇分までの写真上のほぼ同様の映像は、いずれも入港を待つて停泊していた本船の映像であることは疑いがないと認められる(なおこの映像が偽像であると疑う余地はない。)。

そこで前記一〇枚の写真に写つている本船の映像を、海図上にこれを移記すれば事故当日の前記各時刻の本船の各位置が明確に特定されることになるが、判示七、五〇〇分の一の縮尺の海図を用いこの作業を行なつた新潟海上保安部警備救難課専門官である証人小林雅夫の証言およびその作業の結果をとりまとめた同人作成の前掲捜査報告書によると、本船の位置は、

(1) 午前九時五〇分 北緯三七度五六分五二・〇秒

東経一三九度〇三分〇〇秒

(2) 午後四時    北緯三七度五六分四三・五秒

東経一三九度〇三分〇三秒

であり、またこれによれば本船は午前一〇時ころから午後四時ころまでの間に約二五〇メートル陸岸方向に向けて移動していたことが明らかである。従つて、本船は西防波堤灯標から二四七度、一・七マイルの地点に投錨し、その後本船は移動したことはないとの被告人弁護人らの主張は到底採用できないのである。

もつとも、右レーダー写真に基づいて確定できる本船の位置は、午前九時五〇分から午後四時一〇分までのそれであつて、午前七時四三分の本船の錨泊地点、および午後四時四五分ころの本件事故発生地点は未だ明らかになつていない。

しかし午前七時四三分の本船錨泊地点につき検討すると、午前九時五〇分の本船の位置は前示のとおりであるが、当時の気象状況はまださほど悪くはなかつたのであるから、午前七時四三分から午前九時五〇分までの間に本船が移動したとは考えられない。従つて本船の午前七時四三分の投錨地点も、本船の午前九時五〇分の位置付近の海上と認めてさしつかえない。(結局陳維新の前記測定には約一、〇〇〇メートルの誤差があつたことになる)。

次に午後四時四五分ころの本件事故発生時の本船の位置であるが、証人永田義知の当公判廷における供述によれば、新潟海上保安部信号所の信号係長である同人は、前記の第一港湾建設局新潟港工事事務所の中にある新潟海上保安部信号所にいて、当日午後四時四〇分ころから一二センチメートル双眼望遠鏡で本船の状態を注視していたものであるが、四時四〇分ころの同船の位置は、方位盤を使つた目測で陸岸から約七八〇メートルくらいであつたというのであり、右は目測であるから二〇メートルくらいの誤差はありうるものと考え、陸岸からの距離を約八〇〇メートルであつたとして、司法警察員作成の捜査報告書(証拠番号甲九)の記載と合わせ考えると、右の位置は本船の午後四時ころ位置から陸岸方向に三〇〇メートルくらいの距離にあることになる。従つて午後四時四五分に本件事故が発生した時の本船の位置もほぼこの地点附近であつたものと認められる。なお、証人永田義知の供述によると、本船は事故発生後も陸岸方向に流され、しばらくして動かなくなつたといわれ、他方、翌朝午前九時一〇分から行なわれた実況見分の結果によると(証拠番号甲二の実況見分調書)、分断された本船の船首部は、北緯三七度五六・六分、東経一三九度三・三分附近(陸岸から約七〇〇メートル)の位置にあつたことが認められる。してみると、午後四時四五分の本件事故発生地点は、実況見分の際の座礁地点より約一〇〇メートルばかり沖合にあつたことになる。

そこで、これらの証拠から、判示七、五〇〇分の一の縮尺の海図を用いて測定し、午後四時四五分に事故が発生した時の本船の位置は、北緯三七度五六分三八秒、東経一三九度三分一六秒、陸岸から約八〇〇メートルの附近と推定する。

(二)、(三)について

1  被告人および弁護人らの(二)、(三)の主張はいずれも本件における被告人の過失の存在を争う主張であるので、以下これらをあわせ判断して、本件において被告人に要求される注意義務の内容およびその懈怠の有無を明らかにする。

2  被告人は、当日午前七時四三分ころ、本船を北緯三七度五六分五二・〇秒、東経一三九度〇三分〇〇秒に錨泊させたことは、前示のとおりである。同所は陸岸よりわずか約一、三五〇メートルの距離にあり、本船のような大型船の錨泊地点としては、必ずしも適わしいとはいえないことは、証人滝川文雄の当公判廷における供述によつても明らかである。

3  当日は投錨時ころから午前一〇時前ころまで、南西の風が吹いたこともあつた外、それ以後は北西、西北西、北々西の風、すなわち陸岸方向に向けての風が相当強く吹き、波浪も段々強まつてゆく傾向にあり、午後四時ころの気象は航海日誌や新潟気象台の記録を参酌すれば、毎秒一五メートルないし一七メートルの北西の風が吹き、波高も二メートルないし三メートルあつたことは確かである。

そして、その風波の影響により、本船は客観的には午前一〇時ころから午後四時ころまでの間に、陸岸方向へ向けて約二五〇メートルも走錨し、四時以後も陸岸方向へどんどん走錨を続けていたのである。

4  ところで、本船のような大型船舶が陸岸近くの、さほど水深の深くない、かつ陸岸方向に次第に水深が浅くなつている海上に錨泊し、しかも右のとおり風波の影響により陸岸方向に走錨している場合、水深が徐々に浅くなつて、ついに吃水に比べて水深が不十分になり、船底が海底を衝撃し、覆没事故の惹起を見るに至る危険のあることは明らかである。

5  被告人は、やや遅きに失した感があるとはいえ、午後三時三〇分ころ、午後四時を期して沖合へ本船を転錨避航させることを決意し、午後四時にスタンバイを宣し、午後四時三分から揚錨作業を開始したが、その揚錨作業の継続中に判示の覆没事故を招いたのである。そこで、前述のような状況の下で本船を出航させるにつき、被告人にどのような注意義務が課されていたのか、被告人は果してその注意義務を尽くしたのか否かを検討する。

6  船長として船舶の操縦運航の業務に従事する者は、つねに乗務船舶の安全を確保し、覆没事故の発生を防止することに努めなければならないことはいうまでもない。

(1) ところで、当時の気象は非常に激しい荒天であつたとはいえないにしても、前示のとおり相当の荒れ模様であり、船長であれば本船が走錨するおそれのあることに思い至らなければならない程度に風波が強かつたということができる。また午後四時三分に揚錨作業が開始された以後、錨鎖が巻き揚げられるにつれて錨の把駐力が減じ、さらに走錨しやすい状況となつていつたことも、船長として当然気が付かなければならない事柄であつたことは明らかである。従つて、船長としては、右の点をたえず念頭に置き、通常の出航の場合よりは船舶の安全上格段の危険があることに思いを致し、通常の出航の場合以上に、船位の変化の有無、殊に走錨の有無に関心を持ち、船舶備付けの機械器具を使用するなどして、自らもしくは部下に命じてたえず正確な船位の把握につとめ、もつて覆没事故発生の危険を予知しなければならない注意義務があつたといわなければならない。そしてこれを本船に即して言えば、レーダー、ジヤイロコンパスを使用して船位の確認に努めなければならないことはもちろんであるが、それだけでは直ちに短かい時間内の短かい距離の動きは十分確認できないことがあるから、さらに船上に見張りを立てて近距離の陸上に物標をとり視認の方法により走錨の有無を確認し、またハンドレツドを投じてその張り具合や方向を監視して走錨の有無を確認し、さらには音響測深儀等を使用して走錨による水深の変化の有無を確認することなどが必要であつたのであり、かつこのような方法は、とろうと思えば容易にとりえたと考えられるのである。さきに述べたように午後四時ころから四時四〇分ころまでの間に本船は約三〇〇メートル陸岸に接近したとの数値があり、この数値には若干の誤差を伴うとしても、少くとも一〇分間に平均何十メートルもの船位の移動がありえたことは間違いないから(ちなみに、小林雅夫作成の前掲捜査報告書((証拠番号甲七二))によれば、午後三時五〇分から午後四時までの一〇分間に本船が陸岸方向に六五メートル移動したと記載されている)、右の措置を講じさえしたら、走錨の事実は揚錨作業開始後間もなく十分発見できていたと思われる。ところが、被告人は午後四時前から本件事故発生に至るまで、王政雄二等航海士に命じて、レーダー、ジヤイロコンパスにより一応の船位の確認をさせていたが、その測定方法は判示のとおりきわめて大まかで不正確のものであつたのであり、このような方法では船位がたとえ数百メートル移動していたとしても、船は移動していないと判断する余地は大いにあつたのである。しかし被告人は、同人に対し適正な測定方法を何ら指示しなかつたばかりか、右のような到底走錨の事実を明確につかみえない測定方法にもとづく測定結果をそのまま鵜呑みにし、見張りを立てるとか音響測深儀やハンドレツドを使用するなどの方法をとることなく、軽卒にも船位が移動していないと断定したのである。従つて被告人らの船位確認について十分注意義務を尽くしたとの主張は到底採用しえない。

(2) 右のように、本船が陸岸方向にかなりの早さで走錨していたことを前提とすれば、そのまま放置すれば覆没事故の発生の危険があるから、右事故を発生させないためには、できるだけ早く水深の十分ある沖合に、本船を避航させなければならないことは当然である。

ところが、(罪となるべき事実)二で述べたように、本船の揚錨作業は順調でなく錨鎖の第四節はなんとか巻き揚げられたものの、第三節を揚錨するころから、巻き揚げは極めて困難となつた(なお、前述の用意周到な船位確認方法をとればこのころまでには少なくとも十分走錨の事実を知りえたものと思われる。)。

かような場合に船長としては、どのような方法で本船を沖合に避航させるべきであつたか、またその方法が可能であつたかであるが、一般に、錨泊状態にある船舶の緊急の避難方法としては、錨鎖を切断するか、あるいは投錨状態のままで全速前進するという方法が挙げられ、検察官は、被告人がこのような方法をとるべきであつたし、またとり得た主張する。

これに対して、被告人は、本船の揚錨は困難であつたが、船は動いていなかつたのであるから、右のような措置は必要なかつた旨主張し、また弁護人らは(イ)本船の場合のように陸岸までの距離が十分ないときには錨鎖を切断すれば、船体は忽ち陸岸に叩きつけられ、かえつて危険である。(ロ)本船のような大型船が強い風の中に立つている場合、錨鎖には強い力がかかつているため、錨鎖の切断は困難であり、かつ切断された錨鎖がはねるため、切断作業に当る乗組員に危険が伴う。(ハ)揚錨機より先に出ている錨鎖が二節くらいのときは投錨状態のまま全速前進することも可能と考えられるが、本船の場合のようにそれ以上錨鎖が出ているときは全速前進してもその目的を達しうるか疑わしい。(ニ)本船のような原油を積載したタンカーは火気厳禁であつて、火花さえ許されない。殊に本船は船倉よりのガス(石油蒸気)抜き管に折損があつたのであるから、もし投錨状態のまま全速前進をかければ、無理な力が錨鎖にかかり、錨鎖と船体の摩擦によつて火花が出て、このガスに引火する危険がある旨主張しているのである。

しかし、被告人の右の主張は、もともと走錨の事実を否定し、かつ揚錨作業を完了した後に初めて沖合に出港させることをあくまでも前提している主張であつて、採用することができない。また弁護人らの主張についてみれば、

(イ)については、確かに、鐘鳳良一等航海士から、錨鎖が全く巻き揚らないとの報告を受けた午後四時三〇分ころの時点では、すでに本船は覆没地点の相当近くまで走錨していたのであるから、弁護人主張の危険はあつたかも知れない。しかし、同航海士から第三節の錨鎖が巻き揚りにくいとの報告を受けた時点(それが四時何分ころかは確定できないが四時三十分よりかなり前であつたことが推認できる)では、まだ覆没地点まではかなりの距離があり、かつ当時は荒天とはいつても颱風の時のような激しさの風波ではなかつたのであるから、錨鎖を切断した途端に本船が陸岸に叩きつけられたであろうとの主張は、いささか誇張した立論ではないかと思われる。

(ロ)についていえば、たしかに揚錨機より先にある錨鎖を切断する場合には、錨鎖が強く張り、シヤクルのピンにも強い力が横に加わつているため、切断には困難が伴い、また仮にシヤクルのピンを抜き、錨鎖を切断できたとしても、切断したとたん、錨鎖がはね、附近にいる乗組員に錨鎖がうち当るようなことがありうると考えられる。しかし、錨鎖切断の仕方はこればかりでなく、揚錨機より内側にある錨鎖を切断して、揚錨機のウオークパツクを前に回して錨鎖を放つ方法もあり、この方法によれば右に述べた困難や危険はかなり少なくなつたと思われる。

(ハ)、(ニ)については、証人滝川文雄の当公判廷における供述によれば投錨状態のまま全速前進するに適当なのは、揚錨機より先に出ている錨鎖が二節程度以下であるときと認められる(水深の二倍程度までなら可能であるとの説もある)。してみると、本船の場合、当時揚錨機よりも先に二節半程度以上の錨鎖が出ていたことは争いがないから、投錨状態のまま出航する方法をとるべきであつたか、またとり得たかについては、かなり疑問がある。従つてこの点に関する検察官の主張は採用しない(そうだとすれば投錨状態のまま出航することを前提とする(ニ)の主張について判断をする必要がない)。

右のとおり、投錨状態のまま出港する方法はとりえないとしても、錨鎖を切断する方法は、多少の困難と危険を伴うとはいえ、これに対する適切な配慮さえ施せば右の困難と危険を克服して、実施しえたと考えられるのである。従つて、前述したような覆没事故発生のおそれが認められ、一刻も早くその場から避航せねばならなかつた本件の場合には、そのまま揚錨作業を継続することなく、緊急の避難方法を用いて避航すべきであつたのであり、また十分避航可能であつたと考えられる。ところが、被告人は右のような緊急の避難方法をとることなく、漫然揚錨作業を完了したうえで沖合に避航しようと考え、揚錨作業を続けた。

7  右に述べたとおり、被告人は覆没の危険を予見すべき業務上の注意義務および覆没の結果を回避すべき業務上の注意義務に違背して、本船の走錨を放置して、本船を陸岸に接近せしめて、判示の地点で覆没の結果を発生させたのであるから、被告人が業務上過失艦船覆没の罪を犯したことは明らかである。

(法令の適用)

罰条につき、刑法一二九条二項、罰金等臨時措置法三条一項一号。(禁錮刑選択)

刑の執行猶予につき、刑法二五条一項。

訴訟費用の負担につき、刑事訴訟法一八一条一項本文。

(情状)

一、被告人は、被告人外四五名の乗組員が乗務し、多量の原油を積載した本船を、船長としての職責の懈怠により覆没させたものであり、その過失は極めて明白である。

なお検察官が本件で主張している過失は、当日午後四時以後のものであるが、それ以前の被告人の行為にも種々問題がある。たとえば、(1)被告人はそれまでに二度新潟港に入港しながら、同港の港泊図を入手しなかつた(被告人は、港泊図を入手しようと努力したが、第一回目のときは、代理店の手違いで、第二回目は王政雄二等航海士の過失で入手できなかつたと弁解するが、その弁解は信用し難い)。(2)前回入港の際、水先人や代理店係員から、新潟港の検疫錨地がどこにあるか、荒天の際の避航先はどこか(佐渡の両津湾が適当であること)、冬の日本海の気象の特徴などを知る努力をしなかつた、(3)当日朝投錨の際に水深の測定を怠つた(被告人は前回入港の際の投錨位置と同じであつたから、水深測定の必要を認めなかつたと弁解するが、使用した海図が判示のような縮尺の小さいものであつたから、船位の測定にはかなりの誤差があることは当然であつて、やはり水深を測定すべきであつた)、などである。これらの点で慎重な配慮があつたならば、本件事故は避けえたかも知れないと思われる。

二、また結果をみると、本件事故により、本船から約六、〇六二トンもの原油が海面に流出し、現場附近の海岸地域一帯は、流出した原油から発生する大量のガスと風に乗つて飛んでくる大量の原油の飛沫により火災の危険にさらされ、附近住民は不安と恐怖に陥つた。また右原油の流出により、現場附近の海域で漁業に従事している多数の漁民などに重大な損害が生じ、強い生活上の不安を与えたものである。さらに本件事故後、流出した原油の処理や船内に残存する原油の抜取り作業に要した人員と費用は多大なものにのぼつている。本件事故による有形無形の被害は計り知れないものがある。

三、ただ一方、不幸中の幸いとして本件事故によつて人命の損失は免れ、海面汚染による漁業その他の損害は、当初懸念されたほど大きくはないといわれている。また本件海難による損害は、今後の交渉にまつとしても、各種の保険によりカバーされる見込みである。

四、次に本件海難に関し、被告人以外の者につき問題とする余地がなかつたかを検討する。

(一)  本船の船員の中では、王政雄二等航海士の過失は明らかである。同人は甲種三等航海士の免状をもつて、本船に二等航海士として乗組んでいたものであるが(ちなみに、わが国では、船舶職員法上、遠洋航海をする一〇〇〇トン以上の船舶には、甲種二等航海士の免状をもつものでなければ、二等航海士として乗り組めないこととなつている。)、同人の船位測定の方法はずさん極まるものである。同人がしつかりしてさえいれば、本件事故は起きなかつたであろうとさえ思われる。

(二)  新潟港は河口港で、外海に面し、冬期は強い季節風が吹くため、とくに防波堤外の通称第二区では冬期間は危険の多い港であるが、本事故より九か月前の昭和四六年二月にも本件事故と同様の原因にもとづく松豊丸の覆没事故が起こつているのに、その後本件事故までの間に、関係者の間で事故防止の対策が十分練られていたとはいえない。

(三)  本件の場合も、本船が危険な場所に錨泊しているのに気付いた関係者が、もし早期に転錨を警告するなどしていれば、あるいは事故発生を未然に防止しえたかも知れないと思われる。

(四)  また当日本船に水先人が乗船しないことができるだけ早期に本船に伝えられていたとすれば、あるいは本件事故の発生を見ないで済んだかも知れない。

以上の諸点で関係者に望むべき事項は多かつたといわなければならない。

五、そこで以上のような事情のほか、被告人は過失は争うものの、本件事故による重大な結果に対しては、深く遺憾の意を表していることなど、本件審理に顕われた一切の事情を考慮して、主文のとおり量刑するのを相当と認めた。

よつて主文のとおり判決する。

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